明治維新の混乱さめやらぬ中、明治政府は、国民皆学を目指す「学制」を発布し、日本中に小学校を設立していった。大きな困難を乗り越えて開校した学舎をまのあたりにしたとき、当時の情熱を感じとらずにはいられない。
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写真は旧見付小学校(磐田市) |
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| 学制の幕開け
明治維新後いまだ世の中が混乱の時に、明治政府は、万国とならびたつためには人材の育成こそ不可欠であると考えていた。そして明治二年に小学校設立の方針が打ち出された。 実際には東京や京都に小学校が設立されたにすぎなかったが、政府は日本国中のいたるところまでも教育を浸透させ、国民皆学を目指す「学制」を明治5年8月に発布した。これによって6才から13才の男女は学校へ行くことを義務づけられた。この近代的な制度については山間の村人にとっては、おどろきと同時に当時の社会、経済状況からして余りにも実体と合わない面があった。 この学制発布は、旧幕時代の私塾、寺子屋が母胎となっていたのが一般的であったが、それ自体が未発達で、地理的にも不便なこの北遠地方の場合には大きな障害となったようである。村々もその困難を克服して明治六年から七年にかけて開校にこぎつけている。しかし開校したものの当初から学舎が出来た訳ではなく、集落単位に民家または寺を借りて開校したのが実態であった。また開校しても教える教師もなく、寺では和尚が教えていたり、1人の教員が時折巡回して廻るだけだった。この様にして近代化教育が始まり、日本を近代国家にすべく学校教育を欧米諸国の行きかたを手本とし、日本の学校教育を確立しようとしていった。また制度をフランス中央集権的な行き方に学び、教育内容はイギリス、アメリカの実利主義を採用していった。 山村螢雪の跡をゆく 北遠と呼ばれる春野、佐久間、水窪の各地には 標高500m以上の山の中腹には数多くの分校が作られた。それらは昭和40年代まで続けられたが、村の過疎が進みその多くは里の校に統廃合されていった。分校は時の流れと共に取り壊されていったが、一部は村の公民館としてまた、他の施設として残り、そこに生まれ育った人々の我が心の母校としての誇りを持ち続けている。 |
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photo : 天竜石神小学校 明治6年創立。現校舎は昭和3年に建てられ、現在公共用学習環境家具(教室のヒノキの机、椅子を作っている)の天竜ウッドワーク事業協同組合として使われている。
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花嶋尋常小学校(春野町) 明治6年、寺から創立、明治42年に現在の学校が建てられた。校舎はその後茶工場として利用された。
杉尋常小学校(春野町) 明治7年門島高松寺に石打松下村立松下学校分校として創立。 明治16年、杉村杉小学校となる。 当時の講堂が今も人々の憩いの場として生きている。 photo : 杉尋常小学校
京丸・小俣尋常小学校分校 大正11年創立 秘境、伝説の地、京丸。この地には昔より平家伝説が語られ、山のどこかに後醍醐天皇の墓があるという。 |
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明治6年創立 photo : 野田分校
半場尋常小学校 明治七年、天竜寺にて創立
大野尋常小学校分校 明治13年創立 明治14年水窪学校大野分教室 photo : 大野尋常小学校分校
相月尋常小学校分校 明治6年ごろ東林寺にて創立 明治8年に校舎が建て替えられた。この当時は平屋であったか? photo : 相月尋常小学校分校
半場尋常小学校
明治七年、天竜寺にて創立
大野尋常小学校分校 明治13年創立 明治14年水窪学校大野分教室 photo : 大野尋常小学校分校
有本尋常小学校分校 明治13年創立 当初個人宅にて開校後に神礼の舞堂を仮校舎としていた。 明治16年 新校舎となる photo : 有本尋常小学校分校
大嵐尋常小学校分校 photo : 大嵐尋常小学校分校
明治41年創立 奥領家尋常小学校草木分校 明治14年創立 photo : 奥領家尋常小学校草木分校 大嵐尋常小学校分校、奥領家尋常小学校草木分校のいずれも山を一つ超えれば信州へと入るところに分校はあった。 静岡県と長野県を結ぶ草木トンネル開通と共に当時の建物は取り壊され石碑のみが建つ。
参考文献/佐久間町史下巻 取材協力/春野町・佐久間・水窪の教育委員会 |
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