
現在のような暦のない古代、太陽の運行により時を知ることは何よりも大切であり、しかも稲作と関連が深い。具体的に言えば、ある一つの山を基点として、春、太陽が真東から出て真西へ沈む日を春分の日と定める。この日から数えて50〜60日後に種まきを始める。
半年たち、秋、再び太陽が真東から出て真西へ沈む日を秋分の日と定める。この日から数えて40〜50日後に収穫を始める。
太陽が東北東30度から出て西北西30度へ沈む、勢いの一番盛んな日を夏至と定める。ただ夏至の日は梅雨時なので実際見えない日も多い。
太陽が東南東30度から出て西南西30度へ沈む勢いの一番衰えた日を冬至と定める。だが、太陽は日の出と共に再び蘇っていく。つまり死から再生への日として冬至=新年の祭祀が行われた。
他に立春、立夏、立秋、立冬がある。
この「太陽の道」を定める基点となるのが円錐形や笠型をした、いわゆる神奈備山である。なぜ神奈備山というのかは大体次のように考えられている。
神奈備山の奈備とは蛇のことである。蛇は祖神であり蛇が自分の体の上に二重三重にさらにその体を重ねるいわゆるトグロを巻く姿勢を見立てたものである。
「山の神、易五行と日本の原始蛇信仰」吉野裕子(人文書院)より要約
神奈備山は三諸山や御諸山と呼ばれて全国的にかなり多くの例を見ることができるが…(中略)…最近では神隠る山(神霊のこもる山)としてのカンナバリがカンナビとなったという説が有力であるようだが、私は先のことなどから古代人の心情を考えるとき、山に太陽がかかる情景を「日が神となって拠る山」と見て、この山を神那日の山と呼んだように思えてならない。
日本文化叢書3「知られざる古代太陽の道 増補大和の原像」小川光三(大和書房)
古代の人々は神奈備山を聖なる山として拝んでいたから山中、山麓、その山の美しく見える場所に神社や祭祀遺跡がある。
例えば、いずれ詳しくご紹介していくが、掛川市の粟ヶ岳は豊岡村岩室・敷地付近から見れば一番東の端に美しい円錐形をしている。山頂近くには磐座(巨石)を御神体とする阿波波神社が鎮座する。古代の人々が「太陽の道」の山として拝んでいたことは現在の私達にもよく理解できる。
縄文時代
これらの景観で特に注目されるのは、東南側の入口の向きである。そこにはまた、左右に特 の施設があって、さながら門のようだ。実にそこは、冬至の朝、太陽の光が中央広場に射し入る方向なのである。それは冬至の日に死に、再び甦る太陽の日差し(新霊)を受けて祖霊が、ひいては村が再生し、新年が始まるという思想であろう。作物や人だけではなく、死と再生の観念は、当時の人々の暮らしのすみずみにまで貫かれていたのである。
とんぼの本「八ヶ岳縄文世界再現」井戸尻考古館・田枝幹宏(新潮社)
このように、もう縄文時代から始まっている。ただ、稲作との関連で言えば、この時代の食料は木の実・魚貝類・獣肉などの採集を主としている。稲作の痕跡はようやく晩期(弥生時代初期という考え方もある)の菜畑遺跡(佐賀県唐津市)などわずか数ケ所しか報告されていない。
やはり、稲作が盛んになる弥生時代からと考えればよい。
弥生時代(約B.C.300〜300)
吉野ヶ里遺跡
数年前から発掘され「耶馬台国発見」かと騒がれたのが吉野ヶ里遺跡である。
宮室・楼観・城柵・厳しく設け常に人あり、兵を持して守衛す。
「三国志」(魏書・烏丸鮮卑東夷伝倭人の条)
(普 は「魏志倭人伝」と呼ばれている。朝日文庫「耶馬台国」所収などを使用。以下同じ)
このうちの楼観・城柵とみなされるものが出現したのだから無理もない。
ただ、結 として耶馬台国ではなかった。おそらく倭国30国の一つである。だが、ここは巴形銅器の鋳型や絹などから高度の弥生文化が花開いていたことと同時に、首無しの人骨などから「倭国大乱」戦争のあったことを想像できる。
耶馬台国
あの女王卑弥呼の国、耶馬台国といえばその所在地をめぐって、北部九州だ、大和だ、××だと長い間論争が続いている。
確かにここが耶馬台国と確定できれば、古代史上はもちろん一大観光地にもなるのだから当然である。私自身は、鏡、鉄、絹などから北部九州説を取る。
今回はその所在地論はしばらく横において、この国の太陽祭祀を取り上げる。
其の国、本と亦た男子を以って王と為し、往まること七八十年。倭国乱れ、相攻伐すること歴年、乃ちともに一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼と曰う。
鬼道に事え能く衆を惑わし、年己に長大なるも夫婿なく、男弟ありて佐けて国を治む。王と為りてより以来、見る者あること少なり。婢千人を以て自ら侍せしめ、唯た男子一人ありて飲食に給し、辞を伝えて出入す。居処の宮室・楼観・城柵厳しく設け、常に人ありて兵を持して守衛す。
「魏志倭人伝」
男王が没したあと倭国は長い間戦争が続く。それを鎮めるため2世紀末期(184年?)卑弥呼が女王となる。
「鬼道に事え能く衆を惑わし」から卑弥呼は初期道教の影響を受けた巫女(シャーマン)と考えられている。ひょっとしてその名前は日の御子(巫女)という意味なのかも知れない。
景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わして郡に詣らしめ天子に詣りて朝献せんことを求む。太守劉夏、吏を遣わして将て送りて京都に詣しむ。
其の年の十二月、詔書して倭の女王に報じて曰く。
「親魏倭王卑弥呼に制詔す。帯方太守劉夏使を遣わして汝が大夫難升米・次使都市牛利を送り、汝が献ずる所の男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉じて、以て到らしむ。汝が在る所、踰かに遠きも、乃ち使を遣わして貢献す。是れ汝の忠孝、我、甚だ汝を哀しむ。今、汝を以て親魏倭王と為し、金印紫綬を仮えん。装封して帯方太守に付して仮授せしむ…(中略)…今、絳地の交龍錦五匹・絳地のすうぞくけい十張・せん絳五十匹・紺青五十匹を以て、汝が献ぜし所の貢直に答えん。又た特に汝に紺地の句文錦三匹・細班華けい五張・白絹五十匹・金八両・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠・鉛丹各おの五十斤を賜い、皆装封して難升米・牛利に付し、還り到りて録受せしめん。悉く以て汝が国中の人に示し、国家の汝を哀しむを知らしむべく、故に鄭重に汝に好物を賜うなり」と。
「魏志倭人伝」
238年(景初2年6月)、卑弥呼は第1回目の使者を遣る。その時、魏は正月以来遼東の公孫氏(公孫淵)との戦争に明け暮れていた。8月、公孫淵敗れ、戦争は終わる。だが12月、明帝は急病に倒れ、翌239年(景初3年)正月死去。斉王が即 する。この魏の国では皇帝自ら祖霊や太陽祭祀を行なっている。
237年(景初元年)十月
洛陽の南の委栗山を営いて円丘を為る。十二月の壬子の日・冬至、祀を始む。
「魏書」
このような状況の中で倭国の使者難升米達は、冬至の祭祀を見ることができただろうか。
正始元年太守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わして、詔書・印綬を奉じて倭国に到らしめ、倭王に拝仮し、并せて詔を齎し、金・帛・錦けい・刀・鏡・采物を賜う。倭王、使に因って上表し、恩詔に答謝す。
「魏志倭人伝」
1年の喪が明け翌240年(正始元年)魏の帯方郡守の使者から詔書・印綬と共に鏡などを下賜される。
この鏡が後漢式鏡(内行花文鏡・方格規矩鏡・四蛇鏡・獣帯鏡・き鳳鏡・獣首鏡・盤龍鏡・四獣鏡・画文帯神獣鏡など)で、権威の象徴や太陽祭祀の道具として大切にされた。
其の八年、太守王 官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の載斯・烏越等を遣わして郡に詣らしめ、相攻撃するの状を説く。塞曹掾史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢を齎し、難升米に拝仮せしめ檄を為りてこれに告喩す。
卑弥呼、以に死し、大いに冢を作る。径百余歩・狗葬する者、奴卑百余人。更に男王を立つるに国中服せず、更ごも相誅殺し、時に当たりて千余人を殺す。また卑弥呼の宗女壱与、年十三なるを立てて王と為し、国中遂に定まる…(後略)。
「魏志倭人伝」
248年(正始9年)女王卑弥呼の突然の死、それはこの年、9月5日 皆既日食が起きる
前東京大学天文学教授 斉藤国治さんのコンピューターシミュレーションによる。「推理紀行ドキュメント謎と不思議の旅」空白の古代史・卑弥呼は殺された!?TBSテレビ「新世界紀行」(二見書房)
狗奴国との戦争に敗れる
そのためシャーマンとしての権威を失い暗殺されたといわれる。平原遺跡(福岡県糸島郡前原町)、ここが卑弥呼の墓と確定してはいない。けれど42 の大 の鏡(後漢式鏡37 、大型国産鏡5 )そのうち2〜3 を除く全てが人為的に破砕されていたことなど、何か異常時を思わせる。
卑弥呼の死後、男王が即 する。戦争は終わらずようやく巫女(シャーマン)である壱与の即 により鎮まる。
「魏志倭人伝」はこの247年(正始8年)で終わる。
倭国が再び中国の歴史書に登場するのは19年後の266年(泰始2年)
十一月巳卯
倭人来りて方物を献ず「晋書」武帝記第三
である。
この前年魏の司馬炎は武帝と称し晋(西晋)を建国している。
晋はまた魏同様皇帝自ら
円丘と方丘で に行なっていた祭祀を南郊と北郊での祭祀と一緒に行なうこととし、さらに二至(冬至と夏至)の祭祀をも南郊と北郊の祭祀といっしょにおこなうことにした。
JICCブックレット「耶馬台国は古代大和を征服した」
奥野正男(JICC出版局)
太陽祭祀を行なっており壱与の使者達も見ていたに違いない。
耶馬台国は歴代中国皇帝の円丘・方丘での天地の神祀、祖霊の祭祀、二至(冬至・夏至)の太陽祭祀などをモデルとした。
また、その強力な支配力を持った背景として中国・朝鮮の激動期、鏡・製鉄などの高度技術者集団の渡来(亡命)の可能性があげられている。
弥生時代から古墳時代へ
邪馬台国東還と大和朝廷誕生
2〜3世紀(弥生時代後期)、出雲〜大和〜遠江へかけて、北部九州の鏡祭祀文化と違う、銅鐸祭祀文化がある。
銅鐸の性格については諸説あるけれど、農耕祭祀の道具と考えてよいだろう。この銅鐸が、3世紀末期、弥生時代末期、人為的に破砕されたり、一括して土中へ埋められたりする。つまり銅鐸祭祀文化が姿を消していく。
例えば、大和では唐古・鍵遺跡の廃絶、変わりにそこから5キロ離れた初勢川上流の纒向遺跡で、破砕された銅鐸が出土する。
その理由を、大和盆地の各時代の遺跡を調べた寺沢薫氏は次のように論考している。
「母集落と基礎地域の急激な消滅という事態は、前期から継続してきたきわめて安定した姿での農業協同体の内的発展を根底からくつがえすものであり、地域中心を荒廃させ、かつての集落の結合関係や地域の統一を寸断・解体させるほどの歴史的事態を想定させずにはおかないであろう。それは大和盆地という地理的にも大きな完結体が、もはやより大きな政治的権力によって一方的な政治的再編(あるいは軍事的・宗教的統合)を余儀なくされる過渡的な状況を示してはいないだろうか。」
「大和弥生社会の展開とその特質」「榑原考古学研究所紀要」2
寺沢薫
「邪馬台国発掘」奥野正男
PHP文庫より再録
このより大きな政治的権力とは、北部九州の、そう、邪馬台国(邪馬台国を中心とする西日本連合国)のことである。卑弥呼の時代北部九州にあった邪馬台国は、この頃、吉備を り大和・纒向の地へ東遷する。そういえば、先日(9月2日)のNHK教育TVの番組「よみがえる古代王国・伽耶文化の語るもの」で、漢国の考古学者が、加羅(伽耶の遺跡からの出土品は、
●2世紀…北部九州と同じ
●3世紀…不明(残念というか、邪馬台国所在地論争を避けたのかもしれない)
●4世紀…大和と同じ
このような発言をしている。やはり、文化・政治の中心が、北部九州から大和へ移動していくことは確かである。
こうして、大和・纒向の地に大和朝廷が誕生し、邪馬台国以来受け継いでいた「太陽祭祀」(「太陽の道」)を行なう。神奈備山の三輪山を起点として、そこからの冬至の日の出を望む地へ初期の王墓群(祭壇)と、その延長線上に鏡作集団の祭祀場(後の鏡作神社)が設けられる。そして、西日本(中でも吉備)の弥生時代の墓性を母体にした纒向石塚古墳などの初期王墓群が、やがて前方後円墳へと発展する。また、邪馬台国以来の伝統などをふまえた銘と図柄をもつ鏡(三角縁神獣鏡)が作られる。前方後円墳・三角縁神獣鏡は、大和朝廷の権威の象徴として以後、その勢力の及ぶ各地へ広まっていく。
遥か2000年以上前の弥生時代、稲作と共に始められた「太陽の道」(太陽祭祀)は、時移りその姿を変えながらも連綿として続いている。冬至=新年と考えれば、現在の私達が正月に初詣や初日の出を拝む風習はここからくる。それは何よりもまた、私達日本人に稲作農耕民族の血が流れていることの証明である。
以上が太陽の道の大まかな概要であるが、次回より、静岡県周辺の太陽の道を検証する。
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